創世記 その1 天地創造

天地創造(創世記1章1節~2章3節)

聖書の始まりの書である創世記のさらにその始まりの章は天地創造について語るものである。このパートは無神論者からの攻撃の的であり、さらにはクリスチャンたちの間でも見解の相違が大きい、扱いが難しいところでもある。なぜそうなっているかというと、天地創造の記述は「中途半端にロジカルに読めてしまう」ところにあると思う。

つまり、凡人にはまったくもって理解不能な経緯で世界ができた、というのであれば皆おとなしく全能の神を讃え、慎ましく聖書の記述を受け入れる、(あるいは完全に無視する)のだろうが、なんとなく「オレなんか天地創造の仕方わかっちゃったかも」と思わせる量の情報が書いてあったりする。要約するとこうだ。

第一日目 天地が創造され、光が現れた。(しかし地は水で覆われていた)

第二日目 大空の下と大空の上に水を分けた。

第三日目 乾いた陸地が現れ、植物が創造された

第四日目 太陽と月、星が創造された

第五日目 魚と鳥が創造された

第六日目 陸上生物と人間が創造された

第七日目 神が創造を完了し、安息された

ご覧のように、天地創造の大まかなシーケンスが説明されている。すっごいまじめな人たちは立ち止まって以下のようなことを考える。

  • 「全部聖書の記述通りにできた。だから一日は24時間で世界は正味六日でできた。以上。異論は認めない」 by Aさん。
  • 「いやちょっとまてよ、太陽がリリースされたの四日目だし、あれ、三日目まではどうやって一日を測った? 一日って24時間ではなく期間を指してんじゃ無いの?」 by Bさん。
  • 「太陽がリリースされるのが四日目なら三日目の光合成どうするよ? ここ全体が比喩で文字通り受け取っちゃだめじゃないの?」 by Cさん。
  • 「あのー、恐竜はどこにはさんでおけばいいですか?」by Dさん。

以上のように、天地創造の記述について、無神論的進化論、有神論的進化論とか創造論の立場の賢者達がありとあらゆる論説を繰り広げていて、それだけでそっと閉じたくなる世界になっている。(Wikipediaの『創造論』が参考になる。)

他にも、創世記1章1節と1章2節の間には途方も無い時間的隔たりが有り、この間にサタンが反逆して地球がカオスになった、という説もある。興味がある人は“ギャップセオリー”または“間隙説”でググってみて欲しい。この点については後日紹介したい。

その他の説

上記の天地創造の解釈における一つの説を紹介する。これは天地創造の記述は古代イスラエルから偶像崇拝から守るのが目的であると考えるものである。まず、創世記が書かれた際に想定されていた読者は古代イスラエルである。彼らに高度な科学的な知識があるはずもなく、具体的な創造のプロセスを教えても全く理解できないし、あまり意味は無い。したがって、『どうやって世界ができたか』ではなく『誰が世界を創ったか』を明確にするために書かれたのがこの部分であると考える。

そのためこの箇所は、科学的には間違っているがあえて世界観については古代中東世界の認識を否定せずそのまま用い、だがしかしそれをなし得たのはイスラエルの神である、ということを説明しているのだと考える。

例えば第二日目の空の下と空の上の水というのは、現代的な解釈では雲と海のこと指すというのがしっくりくるが、古代中東世界の世界観では地球というのは水に浮かんだ島みたいなもので、それに空と呼ぶ透明なドームがかぶせられており、その外はさらに水に満たされている、と考えられていた。何を言っているのかわからぬという方は”ancient near east cosmology”でググって画像を見て欲しい。つまり「空と空を分ける」という第二日目の説明は古代中東の世界観をもつ人々には容易に理解できる記述だという。

また第四日目に太陽と月、星に関すると思われる記述があるが実はここでは「大きい光」、「小さい光」、「星」と説明されているだけで、「太陽」、「月」といった名詞は使われていない。

これらはすべて、『太陽』や『月』などの異教の神々とされたものや、他の宗教における天地創造をなした神々、つまり偽の神々をまるきり無視し、イスラエルの神が最強というか唯一の神と教えているのだという説である。

この箇所を読むコツ

仮に創世記が天地創造についてロジカルに説明しようとするものならば、たった2ページで済むはずが無い。さらには人類がけして自力では到達できない領域の知識が前提となるに違いない。つまり、聖書がここで伝えたいポイントはそこではない。この箇所が本当に伝えたいことは、『全能の神が世界を創造した。そしてそれは非常に素晴らしかった』という事実だ。

21世紀になり、少しばかり賢くなったと思い始めた人類は(キリスト教徒ですら)天地創造をはじめ、聖書に記された数々の奇跡のいちいちを科学的に、あるいは自分たちの常識で収まるように解釈しようとしがちだが、その行為にはあまり意味が無いと思う。神は全能なのだから、どんな制約も受けないからだ。聖書よりも科学を上位に位置づけないようにしよう。

メモ

第七日目について

神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。(創世記2:2)

ここで神が「休んだ」と述べられているが、これは神様が疲れちゃったわけではない。原文で使われているヘブライ語の”shabat”には「(動作を)やめる、ストップする」という意味があり、つまりはもう創造する対象が無くなっちゃった、という意味。

 

以上

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