創世記 その2 人類の創造

人類の創造(創世記1章26節~2章25節)

神が存在するならば、どうして世界は不幸で満ちているのか? 犯罪被害、病気、搾取、苦役、貧困、戦争、自然災害、などなど。自ら死を選ぶ人すらいる。この理不尽な世界で「世の中には神がいまーす」と言われても、逆に絶望を感じてしまうのでは無いだろうか。もし神が単なる弱肉強食の世界に暮らす動物の一種として人間を創ったのなら、我々は絶望するしかない。神はなんのために人間を創ったのか? まずは聖書に記された人類の起源を調べてみよう。

神の最高傑作

天地創造の六日目、つまり創造の最後の日に神が気合いを入れて造った被造物が我々人類である。なんと人間は「神にかたどって創造された」のである。そしてこの六日目の創造にのみ神は「それは、はなはだ良かった」(創世記1:31)という評価を与えている。常に完全である神の業に「はなはだ良かった」などという出来に関しての程度を示す表現があるのが不思議だが、人間の創造においては特別なことが実現されたに違いない。

神のかたち

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。(創世記1:27)

人間だけに与えられた特徴である「神のかたち」とはどういう意味? 人間は神に似せて創られたとあるが、どう似ているのか? まず、「神は霊である」(ヨハネ4:24)からその姿形が似ていると言っているわけでは無い。主な解釈として、以下のようなものがある。

  • 創造力、知性、自己認識力、感情、モラル、自由意志を持っていること
    生物において人間だけが有する顕著な特徴が「神のかたち」を表しているという解釈。
  • 愛による関係性を重視する存在であること
    創世記1:27では「すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」とある。また、アダムが創造された後、神は「人がひとりでいるのは良くない」と語っている(創世記2:18)。なぜ男と女に創造することが「神のかたち」とされるのか? またなぜ「ひとりでいるのは良くない」のか? それは神は父・子・聖霊からなる三位一体の存在であり、この関係性を継承しているという解釈である。
  • 神の権威を受けている存在である
    創世記1:28では「地を従わせよ」と命令されている。また古代中東世界では「神の像」は支配者の権力を表すものとして遠方の支配地に設置されていた。また支配者そのものが神を表す者として扱われていた。このことから「神のかたちに創られた」とは、神はすべての人間にご自分の権威を与えたという意味だという解釈。これは特に古代中東においては革新的な宣言と言える。

だがしかし、我々は比較対象である神を完全には理解できないため、実際のところどれが正しい解釈なのかは謎だ。上記のすべてを含んでいるかも知れないし、どれも違うかも知れない。ただし、言えることは神は人間を特別な生き物として創ったということだ。

人間に与えられた仕事

神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。(創世記1:28)

人間には地球を管理する仕事が与えられていた。しかしこれは労働というよりは、祝福そのものだ。いわば「繁栄せよ」というのが人間に与えられた仕事であり、それは神の祝福によっていとも簡単に実現できる状況に置かれていた。

食べ物に関する規定

神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。 また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。(創世記1:29-30)

肉が好きな人はちょっとがっかりするかも知れないが、当初人間を含むすべての生き物は菜食を命じられていた。つまり(仏教用語で恐縮だが)殺生が無かった。別の言い方をすると、本来世界には「死」が無く、完全に平和だった。

ノアの洪水後、肉食が許可される(創世記9:3)のだが、将来においてはまた草食に戻ることが預言されている(イザヤ11:6-8)。

アダムとエバ

創世記2章ではかの有名なアダムとエバの創造にフォーカスされている。1章での天地創造が壮大な宇宙的視点で記述されているのに対し、2章での記述は神と人間との親密な様子が描かれている。シーケンスは以下の通りだ。

  • 土(Adamah)から人(Adam)が造られた
  • 神がエデンの園を用意し、園の中央に「命の木」と「善悪の知識の木」を生えさせた
  • 神はアダムをエデンの園に連れてきて、そこを耕すように命じられた
  • 「善悪の知識の木からとってたべてはいけない」というルールが与えられた
  • アダムを助ける存在をみつけるため、アダムにあらゆる生き物を見せた。アダムはすべての生き物に名前をつけた
  • 動物からは助け手を見いだせなかったので、神はアダムのあばら骨の一部からエバを創造した
  • アダムとエバは裸であることを恥ずかしいと思わなかった

善悪の知識の木

主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。(創世記2:16-17)

神は人間にひとつの禁止事項を与えた。この禁を破ると死ぬと神は説明している。非常に有名な話なのでネタバレにもならないので言ってしまうと、「ええ、食いましたとも。しかも二人で!」この結果何が起こったかは次章で考察するが、この時点では「命の木」から食べることは禁じられていない。なので人は永遠に生きる存在であった。(参考:創世記3:22)

1章と2章の創造の違いについて

いわれてみると気がつくのだが、1章と2章では人類創造の記述に関して違いがある。具体的には以下の点である。

  • 1章では人間より先に植物が創造されたが、2章では人間が先に創造されている

    地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。(創世記2:5)

  • 1章では動物が先に創造されたが、2章では人間が先に創造されている

    そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。(創世記2:19)

この違いはなにか? 矛盾なのか? まず考えて欲しいのは、これは矛盾ではなく、正しい解釈があるはずだと言うこと。なぜならば、こんな初っぱなから(まだ3ページだよ!)しかもすぐばれるような矛盾をしこんだ作文は小学生でも書かないからだ。つまり、この記述は古代イスラエル人にとっては至極まっとうな記述だったはずだ。さらに言うと、誰あろうイエス・キリストその人が男女の創造について、1章と2章の説明を組み合わせて引用している。これによってこの箇所の正当性は明らかなのだ。

イエスは答えて言われた、「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。(マタイ19:4-5)

ではどう解釈すれば良いのか? 一般的には1章における創造の記述は創造全体のオーバービューであり、特に重要な人類の創造については2章で再度詳細に記述し、人類の歴史として扱われていると考える。前述した矛盾点は以下のように解釈され、矛盾では無いと考える。

人間と植物の創造の順序

創世記1:12では一般的な植物を指しており、一方創世記2:5で言及されている植物は「人が栽培する必要がある植物」である。これは原文のヘブライ語から判断できる(らしい)。つまり、「人が栽培する必要がある植物」は人が造られるまでは育っていなかった、という意味である。

人間と動物の創造の順序

翻訳によっては分かりづらいが、創世記2:19のヘブライ語原文では創造の順序に関して何も語っていない(らしい)。ただ「神がすべての動物を土で創った」という文と「それをアダムの前に持ってきた」と言っているだけであり、アダムの創造の後に造られたことを明示してはいない。

その他の説

しかし、「1章と2章はそれぞれ別の創造の記述である」と考える人たちもいる。要点としては、1章の人類創造とは別に、2章ではイスラエルの先祖としてアダムが創造されたのだと考える。この場合、アダム以外にも創造された人間がいて、エデンの園の外側にはすでにそういう人間がいっぱいいたかも、ということになる。この説を支持する人は創世記4章におけるカインの追放時、なぜカインは外部の住人を恐れたのか? また追放後、カインはどこから妻を得たか? という疑問の答がここにあるとする(この件に関しては4章の考察で扱いたい)。そうすると、アダムが全人類の父ではなくなってしまうのだが、人類はノアの洪水の時にアダムの子孫であるノア一家以外全滅しているのでやはりアダムの子孫になる。(嫁の家系は知らんけども)

ただやはり、創世記3:20でエバは“すべて生きたものの母”と呼ばれている点、それにアダムが“あらゆる生き物”を見た後に新規作成されたのがエバだったことを考えると、やはり人類はアダムとエバから始まったと考えるほうが自然だ。

この箇所を読むポイント

創世記は実に難解な書である。しかし重要なことは、神が人間に伝えたいことが要約されているのが聖書であり、それ以外の点に関しては人間にとって如何に衝撃的なトピックであったとしても本論ではなく、必要最低限の記述しか無い。そのため、それらの点においては情報量の少なさから解釈が割れる余地が生まれてしまう。しかし逆に言うと、記述の少なさや曖昧さから、どう理解すれば良いのか分からないところがあったとしても、そこは今は分からなくても良いのだと割り切った方が良い。この箇所で理解すべき重要なポイントは以下だと思われる。

  • 神は人間を特別な存在として創造した。つまり人間の存在には意味と価値がある
  • 人間は「繁栄」することがお仕事で、神の祝福を受けた存在だった
  • この世界には死が無い。永遠の命をもたらす「命の木」からは食べ放題だった
  • 神と人との間に親密なコミュニケーションがあった

このように、我々の最初の人生は「イージーモード」どころか「無敵モード」だった。簡単に言うと、神は人間を祝福の中に置き、神と共に生きる存在として創造した。それが今や見る影も無いのは冒頭で述べたとおりである。ある意味、聖書のテーマとは、この始めの状態を回復するまでの壮大なプロセスについて語るものと言っても良いかも知れない。次章では、どうやってこの「はなはだ良い」世界が呪われたのかを考察したい。

以上

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